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| ビオラ(Viola) ヨーロッパに自生する野生種から育種された 花言葉は「誠実」 |
最近、世の中が「履き違えた競争社会」に突き進んでいるような気がしてなりません。その歪みは、至るところで問題として表面化しています。
もちろん、企業が利益を追求する上での「競争」は否定しません。
しかし、私たちが身を置く共同体としての社会にまで、むやみに競争原理を持ち込むのはどうでしょうか。
「競争」の本質は、突き詰めれば「個々人の勝手(自由)」です。
互いに蹴落とし合い、勝者だけが報われる論理を共同体に持ち込んでしまえば、共に生きる意味そのものが失われてしまうのではないでしょうか。
「生命の尊さ」という言葉の空虚さ
テレビで評論家が尊厳死や医療裁判のニュースについて、熱っぽく「生命の尊さ」と「医療の重要性」を説いていました。その言葉自体に間違いはないのかもしれません。
しかし、聞いていてどこか冷めた感情を抱いてしまったのも事実です。
なぜなら、彼が語る「生命の尊さ」からは、現実にある不平等という視点が抜け落ちているように見えたからです。
高度な医療が受けられる可能性があっても、それはあくまで「可能性」でしかありません。医療レベルが上がれば上がるほど、必要となる費用は跳ね上がります。
難病の子どもが取り上げられる際、救済の決め手となるのは、そのほとんどが善意の「義捐金(ぎえんきん)」です。裏を返せば、個人の経済力や注目度が命の選別に直結しているのが現実です。
「生命は尊い」と口にするのは簡単です。
しかし、その言葉で満足し、一種のカタルシスに浸っているだけではないか……自戒を込めて、そう感じてしまうのです。
「地獄の沙汰も金次第」という現実の中で
もし、この世の中が「結局は金次第」であることを是とするならば、せめて最期の選択くらいは個人の手に委ねられるべきではないでしょうか。
高額な費用をかけ、生命維持装置をつけてまで生き永らえたいかどうか……その判断を下すのは、医者でも社会でもなく、本人であるべきです。
子供の命に「格差」があってはならない
特に悲惨なのは、適切な医療を受けられる経済力がなかったために、失われていく若い命です。
リソースに限界があるというのなら、せめて子供や若い世代に対してだけでも、社会はもっと徹底的な医療投資をすべきではないでしょうか。
「高齢者より若者を優先するのか」と怒る方もいるかもしれません。
しかし、子供は社会の宝です。親の経済力によって、受けられる医療に格差が生じ、救えるはずの命が消えていく……そんな状況はどう考えても歪んでいます。
共同体としての誇りを取り戻すために、私たちは今一度、「競争」をどこに持ち込み、何を「連帯」で守るべきなのかを問い直す時期に来ているのかもしれません。

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