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銀河を形成する凡人 Nano Banana AIで生成 |
足掛け20年、凡人として書き続けるということ
ホームページ開設から数えて、私の投稿は足掛け20年になります。空白の年はありましたが、これほど長く続いたのは、人生、仕事、スキー以外にはありません。
これほど長く書いてきて気づくのは、自分がいかに「凡人中の凡人」であるかという事実です。誰かのためではなく、自分のために書き続けてきた。特定の相手に価値を届けるメールに比べれば、私の文章など他者には価値がないのかもしれません。
しかし、この「凡人」という存在こそが、実は社会のあり方を決める鍵を握っているのではないか――。20年の節目に、そんな考察に至りました。
社会の基盤としての「凡人」
一般的に、凡人は「個の存在が希薄で、いなくなっても大勢に影響しない」と思われがちです。しかし、事実は逆です。社会は凡人で成立しています。
凡人は数の上で圧倒的多数であり、安定した精神と、環境への強い適応力を持っています。個としては弱くとも、集団(仲間)を形成し、その力に頼る術を知っています。だからこそ、民主主義とはまさに「凡人のための政治形態」なのです。
脅かされる凡人の価値
しかし今、この「凡人の価値」を根底から覆そうとする動きが、世界の片隅で囁かれています。
かつて支配層が地位を享受するには、労働力としての膨大な凡人が必要でした。しかし、生産手段の革命的発達(ロボットやAI)により、一人当たりの生産性が飛躍的に向上した現代、彼らにとって凡人は「必要最小限」で良い存在になりつつあります。
食糧枯渇や環境汚染を背景に、凡人をコントロールしやすい数まで減らそうとする選民意識。AIが凡人の代わりを務める未来。こうした構造の中で、私たち凡人が対抗できる唯一の武器は、皮肉にも「数」による民主主義しか残されていないのです。
「ポピュリズム」という警報装置
ここで、現代でしばしば悪者とされる「ポピュリズム」について考えてみたいと思います。
メディアはポピュリズムを「感情的で未熟な政治」と批判しますが、それは本当でしょうか。
歴史を遡れば、古代ローマから近代に至るまで、支配が成立する場所には常にポピュリズム的要素が存在してきました。ポピュリズムとは「破壊」ではなく、「硬直した体制の機能不全を可視化(暴露)する装置」なのです。
なぜ今、ポピュリズムが起動するのか
マックス・ウェーバーが指摘した通り、組織は時間とともに官僚化し、合理性は自己保身へと変質します。
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熟議・専門性・漸進改革だけでは、既得権益の壁を破れません。
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体制が硬直し、正統性が感じられなくなったとき、その「凍結」を溶かすためのショック療法としてポピュリズムが起動します。
感情動員は「凡人の唯一の対抗手段」である
支配者側は、理論、制度、専門知識、手続きという支配の道具を独占しています。さらに、マスコミという「媒介者」を使い、情報を編集し、自分たちに都合の良い物語を流布します。
対する凡人(人民)は、日々の生活に追われ、継続的に政治に関与する余裕はありません。その凡人が、圧倒的なリソースを持つ支配層に対抗するためには、以下のプロセスが不可避となります。
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単純化(複雑な問題を分かりやすく)
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マス化(個を数にまとめる)
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感情の共有(怒りや不安をエネルギーに変える)
メディアがポピュリズムを「悪」と語りたがるのは、発信者が大衆に直接語りかけることで、自分たち(媒介者)の存在価値が否定されるのを恐れる「自己防衛」に過ぎません。ポピュリズムによる感情動員は、退行ではなく、構造的に残された唯一の対抗手段なのです。
凡人が自らのために民主主義を使う時
もちろん、ポピュリズムには危険もあります。感情が特定の指導者に集中しすぎれば、それは新たな独裁や不安定化を招くでしょう。
しかし、言論に高いコスト(社会的制裁や痛みのリスク)が伴う現代社会において、沈黙を強いられてきた凡人が声を上げるには、この「警報装置」を鳴らすしかありません。
「ポピュリズムなしに変革は起きない」
20年間書き続けてきた私が今思うのは、凡人は自分たちの存在価値を否定するいかなる行為に対しても、民主主義という「数の力」を積極的に、かつ自覚的に利用すべきだということです。
優秀な非凡人に利用されるだけの民主主義から、凡人が自分たちの生存を守るための民主主義へ。その起動スイッチは、私たちの手の中にあります。

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