薄紫の大輪を咲かせたアジサイ |
法律を成立させた目的
法律を理解しようとするならば、その法律を成立させた目的を理解する必要があります。何故なら、多くの年月を経ると共に、社会環境や通念が変化してきますので、古い条文の文言だけでは妥当性を欠く不適切な内容になってしまうことがあるからです。
また、法律は、それを見越して詳細で具体的な表現は避ける傾向にあります。
基本的人権は面白い
本来の目的
「基本的人権」は、なかなか面白い超法規的なものなのですね。つまり、法律とは関係なく、人間が生まれながらにしてもっている(享有する)普遍的な権利なのです。
従って、国家権力(あるいは支配者)によっても侵されない人権ということになります…これが、「基本的人権」の本来の目的です。
2種類の基本的人権
「基本的人権」の元々の概念は「自由権」だったのですが、後から「生存権」も含まれました。「自由権」には次のようなもがあります
- 思想・良心の自由
- 信教の自由
- 学問の自由
- 表現の自由
- 集会の自由
- 結社の自由
- 職業選択の自由
- 居住移転の自由
- 外国移住・国籍離脱の自由
「生存権」には違和感があります
「生存権」とは、人間が人間らしく生きるために必要な諸条件の確保を、国家に要求する権利とありますが…私には違和感があります…何故なら、「基本的人権」は、国家権力が侵すことのできない、人間が享有する権利なのですが、「生存権」は国家に依存することになるからです。
「生存権」は日本国憲法第25条に規定されています。
「自由権」を制約する「公共の福祉」
「公共の福祉」は、「それによって人権を制約される当該個人の利益にも還元される全体の利益」という定義が分かり易いと言えそうです…苦し紛れの感もありますが…公平の原理としての「公共の福祉」
しかし、人権と人権の衝突を調整する公平の原理としての「公共の福祉」の解釈は難しくて、定説には至ってないようです。何故に難しいかと言いますと、「公共の福祉」は、基本的人権と対立する可能性を秘めた国家権力による恣意的判断/濫用の可能性を秘めた言葉だからです。
それだけ「公共の福祉」は厄介な言葉だと言えます。
基本的人権は、基本的人権に制約される
本来なら、個々の人間が享有する基本的人権は、基本的人権自体に制約されるものです。何故なら、特定の個人の人権の行使が他人の人権を侵しても良いとするなら、基本的人権には大きな矛盾が内包されることになってしまい、自己崩壊を起こしてしまいます。
つまり、基本的人権の概念が論理的に成立するためには、基本的人権は基本的人権によって制約されなければなりません。
高位の基本的人権が低位の法律によって制約されること自体が異常とも言えます…下位の法律によって憲法を変えるようなものです。
「公共の福祉」は「表現の自由」を制約できない
従って、基本的人権である「表現の自由」を基本的人権ではない「公共の福祉」で制限することは出来ないと私は判断します。「制約」の例
明らかに行き過ぎだと思われる表現は、何故、制約されるのか…それは、その表現が他の個人の人権を侵す場合です。例えば;
- 他の人に「しゃべるな、なにも言うな」という意味の表現をしたとするなら、他の人の「表現の自由」という人権を侵害したことになります。
- 「そんな考え方は止めてしまえ」と特定の人に言ったとするなら、言われた人の「思想・良心の自由」を侵したことになります。
- 「得たいの知れない新興宗教などは潰してしまえ」と主張しますと、「信教の自由」を否定したことになります。
- 「そんなものは芸術でもなんでもない。撤去しろ!」と意思表示をしたとするなら、「表現の自由」の侵害です…「そんなものは芸術でもなんでもない」と言うだけなら、問題はないと思います。
【ご参考】
★ 現代の価値観で過去の時代の現象を断罪できるのか?
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