現代の価値観で過去の時代の現象を断罪できるのか?

7/06/2024

意見 人権 歴史・文化

真っ赤なフラメンコの衣装をイメージさせるカンナ
熱帯アメリカが原産と言われる
鮮やかなハナカンナ

数学者で作家の藤原正彦氏が面白いことを沢山書いておられるようですが、最近読ませて頂いたアメリカ合衆国の独立宣言から敷衍してゆくエッセイは、その内容は特別目新しいことではりませんが、面白かったです。

そのなかで印象的だったことは、33歳のトマス・ジェファソンが1776年に起草した独立宣言の中の;

「我々は次の事実を自明と信ずる。すべての人間は平等であり、生存、自由、そして幸福の追求など誰も奪うことのできない権利を神より与えられている

;の部分で「神より与えられている」ということを「自明と信ずるなら神など持ち出すな」と揶揄している点です。このことは後で触れさせて下さい。

この自由と平等の精神はフランス大革命での人権宣言や国連による世界人権宣言の冒頭に掲げられた基本精神となったわけですが、それは彼の時代では欧州から米国にやってきた主として白人たちの人権であり、実は、先住民族のインディアンやアフリカから連れてこられた黒人奴隷たちには関係のない世界のお話だったのです。

トマス・ジェファソン自身は、麻などの大農場を持ち、200人とも600人ともいわれる黒人奴隷を所有し、1801年に第三代米国大統領になってからはインディアン絶滅計画を精力的に進めたと言われる人物です。
(このような現代人には不快感を伴うバッググラウンドは、多かれ少なかれ米国大統領たちにはあるようですね…あの、リンカーンでさえそうです)

しかし、だからと言って、トマス・ジェファソンの歴史的価値が毀損されるとは私は思っていません。
何故なら、人間は生まれ育ってゆく環境に制約されると言われますように、現代の価値観でもって過去の時代の現象を断罪することは傲慢にすぎないと思うからです。
硬直化した旧体制から新たな世界へ一歩でも踏み出すという精神が崇高なのです。

さて、何故「神」という言葉にトマス・ジャファソンは頼ったのかと申しますと、絶対的な真理を保証できるのは、当時では全能の「神」しかいなかったからなのです。
つまり、人間の誰かが真理を訴えたとしても、その言葉は神の言葉を超えることは出来ず、その神の言葉を信ずる人々には見向きもされなかったことでしょう。

中心に∞形状がある仕切り線

PS.
崇高な理想を掲げたオリンピックの創始者クーベルタン男爵でさえも時代の制約から100%逃れることはできませんでした⇒★スポーツは極めて政治的

【ご参考】
「表現の自由」を「公共の福祉」で制限できるのか

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