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| 1月5日の賑わいの水天宮 (RICOH GRIII) |
法律を理解するには「成立の目的」を知る必要がある
法律を真に理解しようとするならば、条文の文言だけを追うのではなく、その法律を成立させた「目的」に立ち返る必要があります。
なぜなら、時代の変遷とともに社会環境や価値観は変化するため、古い条文の文字面だけでは現代において妥当性を欠いてしまうことがあるからです。また、法律は将来の変化を見越して、あえて詳細で具体的な表現を避ける傾向があることも忘れてはなりません。
こうした視点で見ると、憲法が保障する「基本的人権」という概念は非常に興味深い性格を持っています。
「基本的人権」の本来の姿
基本的人権は、法律によって作られたものではなく、人間が生まれながらにして持っている(享有する)普遍的な権利、いわば「超法規的」な存在です。 つまり、国家権力や支配者であっても侵すことのできない聖域——これが、基本的人権の本来の目的です。
基本的人権は大きく二つに分けられますが、私はここに一つの矛盾を感じています。
自由権(国家からの自由)
思想、信教、表現、集会、居住移転の自由など。これらは「国家は個人の領域に介入するな」という権利です。
生存権(国家による自由)
「人間らしく生きるための条件確保を国家に要求する」権利です。
ここで私は違和感を覚えます。本来、基本的人権とは「国家権力が侵せない権利」であったはずです。しかし、生存権は「国家に依存すること」を前提としています。国家を遠ざけるための権利の中に、国家に依存する権利が含まれているという点に、概念としてのねじれを感じるのです。
「公共の福祉」という厄介な言葉
もう一つ、人権を考える上で避けられないのが「公共の福祉」という言葉です。 これは一般に「個人の利益にも還元される、社会全体の利益」と定義されますが、どこか苦し紛れな解釈のようにも見えます。
実際、「公共の福祉」の解釈には定説がなく、非常に難解です。なぜなら、この言葉は国家権力が恣意的に判断し、人権を制限するために乱用されるリスクを常に孕んでいるからです。
人権を制約できるのは、人権だけである
私は、基本的人権は「公共の福祉」という抽象的な概念によって制約されるべきではないと考えます。本来、基本的人権を制約できるのは、**「他者の基本的人権」**だけであるはずです。
もし、特定の個人の人権行使が、他人の人権を無制限に侵害して良いとするならば、人権という概念自体が矛盾し、自己崩壊してしまいます。 つまり、論理的に成立させるためには、**「人権は、他者の人権を守るためにのみ制約される」**という原則が必要です。
高位の概念である「基本的人権」が、それより下位の概念である「法律(公共の福祉の具体的適用)」によって制限されるのは、主客転倒と言わざるを得ません。
「制約」が正当化される具体例
では、どのような場合に表現が制限されるべきなのでしょうか。それは、その表現が明確に他者の人権を侵害する場合に限られます。
- 「喋るな、何も言うな」と強要する: 相手の「表現の自由」を奪う行為。
- 「そんな考えはやめろ」と強要する: 相手の「思想・良心の自由」を否定する行為。
- 「特定の宗教を潰せ」と攻撃する: 相手の「信教の自由」を侵害する行為。
- 「そんなものは芸術ではない、撤去しろ」と迫る: 作者の「表現の自由」を否定する行為。
一方で、「私はそれは芸術だとは思わない」と述べるにとどまれば、それはその人の自由な意見であり、尊重されるべきものです。
基本的人権は、国家の都合(公共の福祉)で縛るものではなく、互いの人権を尊重し合うという論理的な枠組みの中でこそ、その価値を保てるのではないでしょうか。
以上が、私の考えです。

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