長さ100mの東置繭所(ひがしおきまゆじょ) 1階が事務所で、2階が繭の倉庫 |
繭 |
製 糸
先日、2014年6月にユネスコの世界遺産に登録された、群馬県富岡市にある「富岡製糸場」の見学に行ってきました。自分の常識の無さをひけらかす訳ではありませんが(^-^;…製糸といえば、糸を造る/糸をつむぐことだと思ってました。
糸には色んな種類がありますよね…
木綿、羊毛、絹、麻、ナイロン、ポリエステルなどなど…それらの糸を造るのが製糸だと思っていたわけです(-_-;)
ところが、日本で「製糸」と言えば、蚕(カイコ)から絹織物の原材料となる生糸を造ることを意味するのですね。
因みに、他の糸の製造、と言うよりは、一般的に糸を造ることを「紡績」と言います。
明治から昭和初期にかけて生糸と絹製品は緑茶ともに日本の外貨獲得の重要な商品・産業であったので、製糸=主に生糸の製造を指すようになったそうです。
富岡製糸場は官営模範工場
明治政府は、殖産興業政策で、率先して新しい産業を興すために官営模範工場を創設しました。八幡製鉄所、造幣局、富岡製糸場は日本三大官営工場と称されるそうです。
製糸の近代技術は、当初、日本産生糸の主な輸出先であったフランスから導入すことに決め、明治政府は設立指導者のポール・ブリュナと1870年(明治3年)に契約を交わしました。
それと同じ年に、建設地は富岡と決定されます。
決定理由は次の通りです:
- 養蚕が盛んで、原料繭が確保できる
- 工場建設用の広い土地がある
- 外国人指導の工場建設に住民が同意
- 既存の用水が製糸に利用できる
- 燃料の石炭が近くの高崎で採れる
富岡製糸場で働く工女たちの労働・生活環境も配慮した人員となっています。
実際に、工場敷地内に診療所も設けられました。
余談ですが…遥々フランスからやって来たものの、刺激がない退屈な富岡の生活に耐えきれず、ちょくちょく横浜に遊びに行き、仕事に支障をきたして、終に首になってしまった青年もいたそうです。
富岡製糸場に滞在したブリュナを 首長とするチーム |
昔、聞いたことのあるようなお話ですが、フランス人が飲む赤ワインが血だというデマが流れ、富岡製糸場に行くと生き血を取られるという噂が立ったためです。
一計を案じた工場長が、自分の娘を工女として採用することにより、徐々に噂を打ち消して行き、予定より3か月遅れで工女を集めることが出来たとのことです。
当時、世界最大規模と言われた300人の工女を集めて操業開始したのは1872年(明治5年)です。
東置繭所のアーチ型玄関に掲げられた 操業開始年 |
近代産業の黎明を表す 波浪と太陽の屋根飾り |
近代技術で操業される製糸工場は、指導者を育てるという目的も持ち、各地から集まった技術伝習工女たちは、技術習得後に指導者として、それぞれの地元に帰ってゆきました。
蒸気機関を使ったフランス式繰糸作業現場 |
繰糸作業実演 |
1877年(明治10年)以降は、長野県、山梨県岐阜県が代表する東日本を中心に生産が行われました。
設立を指導したブリュナは、1875年(明治8年)に契約満了となり、その2年後に帰国しています。
官営模範工場としての富岡製糸場は、1893年(明治26年)に役目を終え、三井家へ払い下げられました。
かつての工場内だが、 機械は日産のフルオートメーション |
日産の繰糸機械で フルオートメーション |
『あゝ野麦峠』と富岡製糸場
昔の製糸工場と聞きますと、ああ、あの野麦峠ね、と反応する方々が少なからずおられると思います。日本の製糸業者の多くは10人繰以上30人繰未満の中小規模業者が中心で、寄宿制と低賃金、劣悪な労働環境で働く製糸工女が存在していたそうです。
その状況を題材にしたノンフィクション文学なのですが、どうも、悲惨さを強調した映画のイメージが一般受けして、原作が表現している「日本のその時代の背景の下で、人々が貧しく苦しい時代を懸命に生き抜いた」という逞しさに焦点が当たらなくなっているようですね。
富岡製糸場の工女たちは、模範工場だけあって、一日8時間労働・日曜祝祭日は休みという労働条件下で働いていたそうです。
賃金も低いとは言えず、医療も受けられる環境にあったそうです。
官営模範工場の富岡製糸場の工女たちには「工女哀史」は当てはまらないという説明を案内の方から受けました。
【ご参考】
★ 人それぞれの感じ方
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