雨上がりのツツジ |
自ら命を絶つ自由もあるのか
日本国憲法第十三条は次のように謳っております。【個人の尊重・幸福追求権・公共の福祉】すべての国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
この「生命」に対する権利を自殺することにも適用できると解釈しようとする方もおられようですが、それは間違いですね。
上記の条文は英語を訳したかのような日本語になってますが、正にその通りで、日本文で「生命」と訳しているために誤解が生じるのかもしれません。
ここでの「生命」(life)に対する権利とは、自分の命は自由にできるという権利ではなく、「生存する、あるいは、生活する権利」のことです。
日本国憲法にも基本的人権にも、自殺する権利は謳われておりませんが、それを特別に禁止する内容もありません。
国家は「生存」を大前提として形成される集団なのですが、その基盤を否定する「自殺」を、何故、禁止しなかったんでしょうかね…
ユダヤ教やカトリック教のように自殺は許されない行為と明示する宗教では、かつては、自殺した人に宗教的な罰を与えるということが行われていたようです。
しかし、現実の世界では、禁止し罰則を設けたとしても、死んでしまった後では罪を科す対象が存在しなくなってしまうのですから、詮無いこととなったのでしょうか…
禁止されていないが故に自由?
「意志」を持つ人間ですから、当然、個人として選択を決定する自由があるとも言えそうです。たとえ、その決定が社会的罰則を伴うものであったとしても、その罰則を甘んじて受け入れる意志がある決定なら、それも自由と言えるのかもしれません…
まあ、確信犯とはちょっと異なるかもしれませんがね(^-^;
人間の体の機能
人間の体には生きてゆくための様々な機能が備わっており、それらは驚くばかりの出来栄えです。何故と疑問を持つことの無意味さに、創造主を信じてしまいたくなったとしても不思議ではありません。
どう考えても、それらの機能の殆どは、人間が生きるために必要とするものです。
痛みを感じます、苦しさを感じます、恐怖を感じます…これらは人間の生命が脅かされる可能性を警告し、人間がそれらから逃れようとする反応を引き起こします。
死ぬ自由があるなら、人間には死の恐怖はない
人間に、自ら命を絶つ自由が備わっているとするなら、人間は、少なくとも、死に対する恐怖を感じない筈です。しかし、精神的な問題を抱えていない人なら、程度の差こそあれ、誰でも死に対して恐怖心を持っています。
このことは、人間には、基本的に、死ぬ自由は備わっていないと言わせてくれます。
生存するから自由がある
自由自由とマスコミは喚きますが、人々が生存するから自由が必要になるのであって、人々が生存しなければ自由も必要ありません。命なくして何が自由だ!と声を張り上げたくなる時もありますよね。
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