民主主義における総意とは

1/04/2021

意見 政治

デルフィニウム
デルフィニウム
野生種は、雪解け水が流れ込む冷涼な
高地の草原湿地に自生しいるそうです

精神を束ねるような存在にとっては民主主義は悪でしかない!?

ははーっ、と畏まって奉るような理屈を超えた存在を認める精神構造の持ち主たちにとって、民主主義は悪でしかないのかもしれませんね。

何故なら、その奉られる存在は、人民による人民個人個人の意思が直接的あるいは間接的に反映された多数決で決められたものではないからです。

民主主義における決定は総意によって完結する

 民主主義の理念

民主主義の理念は、主権は人民にあり、支配(人民一人一人が直接的あるいは間接的に影響を受ける決定)は人民の総意に基づくものであるということでしょうね……様々な解釈はあるようですが…

 民主主義の総意とは

そして、その総意とは、民主主義の根本理念である個人個人の意志が反映される多数決によって決定されたことに、反対の考えを主張する人民も従うことを意味すると私は考えます。

歴史上では、「ソクラテスの毒杯」が有名ですね……私は、その内実は知りませんが(^^;)

上記の民主主義における「総意」は、私の勝手な解釈で、辞書による「全員の一致した意見・考え」の「総意」とは意味が異なりますが、私は論理的に妥当性があると思っています。

何故なら、民主主義の決定は、それがたとえ51%の多数によるものであったとしても、その決定に他の49%の人民も従うのでなければ、民主主義は内部崩壊してしまう…つまり、金、暴力、民意の誘導/洗脳などの他の決定方法が台頭してくることになります。

従って、民主主義における決定は、結果として、総意となる必要があります。

民主主義は全体主義とどこが違う?

それでは全体主義と同じじゃないかと仰る方もおりますでしょうね……ご尤もです。
決定されたなら、全員がその決定に従うという面では同じですね。

違いは、その決定に至る過程なのですが、それとても、多数の人民が洗脳されたり、個々の活動が制限されるようになりますと、形態上は民主国家といえども、実質的には全体主義国家となってしまいます。(中国には9つの政党があると言われますが、表立って活動しているという報道に接したことがありません)

つまり、個々人の思考や活動が全体主義的な制約を受けないということが民主主義を成立させるための前提となるでしょうね。

少数意見の尊重も民主主義によって決定されること  

また、少数意見も尊重するのが真の民主主義であると、恰も、修正民主主義的なことを仰る方々も少なくありませんが、それは民主主義に宗教的な価値観を内在させようとする大いなる過ちです。

少数意見も尊重することは、民主主義の手法でもって人民が決定することです。

民主主義は真理を追求する道具ではない

民主主義は真理とは没交渉なのです。

民主主義に価値観は内在しない

民主主義は、個人個人の意志が反映される多数決によって決定がなされるという過程、決定方法でしかなく、民主主義によって決定される事柄は正しいとか善だとかを保証している訳では全くないのです。


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